トモさんのよろず評論
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マニフェストについて
 いま、政治学者やマスコミが「マニフェスト」というものを宣伝していますね。そしてこの言葉の意味を、政党や政治家に公約を明示させ守らせることだとしています。ですが、これは社会に現実にある分業関係を見ないで、錯誤している意見ではないでしょうか。

 農林漁業・鉱業・工業製造業・建築業・商業・サービス業などの従事者や主婦などは、日々自分のその専門の仕事を忙しくやり、生活を送っています。その人たちが同時間に、別の場所で起きている国会や地方議会や行政機関の、またそれと管轄され結びつてある経済・財界や大企業の出来事を、しかもまた日々・時々刻々起きている出来事を目の当たりにしたりすることはできず、それを知りようがないはずです。多くの国民には、そのように職業分担したために、また時空を超えられないために、知ることができない事実があります。従って、多くの国民がそれらの出来事の情報を得るには、新聞やテレビなど以外にはなく、マスコミが使う言葉と意味内容をそのまま受け入れざるを得ないわけです。

 だから、新聞やテレビなどが政治・経済・社会の出来事の真実と意義・評価・価値・基準などを報道しないかぎり、国民はそれら政治などの実際を知り判断するべくもないのです。政治や政党にはマスコミ界全体と同じだけの広報力はなく、まして他の業種も政党以上にその力はなく、マスコミが公器として責任と役割を果たさなければ、国民にはそれら政治などとその政治公約を守らない問題を知ることはできないのです。従って国民は、マスコミの情報操作とそのあり方いかんによって、政財官界などの正しい認識を得られるか否か決まるのです。そうして現実には政治家や官僚と財界・マスメディアの職業連携による情報操作の勝手放題となって、国民が政治家や政党に公約を守らせる以前の状態に置かれることになっているのでしょう。事実がそうであったからこそ、しかも長年そうあったから国民のための公約を守る政治とはならなかったのでしょう。マニフェストの主張は、そのような政治家とマスコミの社会的分業関係を見ないで、またその専門・責任関係と連携関係の現実・事実を省みないで、さらにマスコミの社会的分業責任と言語と情報の独占独壇場性を無視した、学者などの頭だけで通用する観念的な政治学・社会学の主張なのではないでしょうか。その主張や仕事や活動と運動は、社会諸問題の根本問題と原因を誤魔化し、社会に錯誤と混乱・倒錯・弊害・崩壊を広めることになるのではないでしょうか。それを主張する方達の、検討をお願いしたいと思うのです。

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ジェンダー その2
ジェンダー1の続きです。

ジェンダーという言葉を使う使い方が示すことは、またその言葉には、最初の前提から誤りを隠し持っていて、その答えが見つからないように秘密の意図が隠されてあるのではないでしょうか。つまりジェンダーという言葉を使って、いくら討論し研究しようとも、女同士と男女の混乱と対立が生まれ、女性差別の解消が一段と難しくなるところに、ジェンダーという言葉を広め使う意図があるのではないでしょうか。その他の流行言語・新言語なども、それらを広め使かわせる意図がそんなところにあり、論理学的原理や構造をある程度理解していないと足元をすくわれることになるのです。女性問題の学者や研究者などの専門家や、また社会学者などは、女性問題の様々を知ってはいるのですが論理学を知らず、そのような論理学的な構造や深さを知らないのです。その論理学の問題をこのようなブログで話すことは不向きなので一々は省略しますが、簡単に言えば自然界や社会の現象を正しく思考活動したり、それらのコミュニケーションを上手に進めるための思考や論理展開のあり方や形式や内容を研究したり示す学問なのです。古代ギリシャから弁論術だとか思弁学などとして歴史的に積み上げられ、そして18~21世紀の現代までに提起されている課題などもあるのです。しかしそのような論理学の発展史や課題に対抗し、現代は実際主義や心理学主義の記号論理学が流行っているのです。そのような論理学によって現代の学問の世界体制は、歴史的に積み上げられた言語内容を無視し、様々な新語・流行語を意図的に持ち出す学者と、またそれを世界に広める仕掛け人によってあるのです。こうして自然科学の学問研究は進んでいるのに、社会科学の進歩は19世紀以降特筆されるべきものがないのです。


それらのゲーム感覚で人々を混乱させて、馬鹿さ加減を見て楽しむ論理学的頭脳プレイ(簡単にいえば『言葉あそび』や議論をかき混ぜ楽しむ『ディベート』のこと)によって、現代の多くの社会学者たちが論理矛盾の迷宮に閉じ込められてしまっているのです。ですが私たち国民は、フェミニズムやジェンダーなどといった数年で消える根も葉もない新言語や流行語に踊らされたり、そうして意味内容が通じ合えなくなって男女が対抗するようになってはならないのです。私達は足下をしっかりと見て、愛と協力や協同が、男女や夫婦や子供や家族が、幸せに生活するためには必要なのだという、私達のテーマや課題を求めなければならないのです。

家族のこと
 現代の家族は揺れています。LSCで家族問題の相談を受けたり、女性専門誌や新聞などの婦人欄などを読んでも感じるのですが、現代の家族は「基準を失い」揺れているという印象が湧いてきます。
 家族のあるべき姿や、父母や子供のあるべき姿が見失われ、基準が失われグラついているのだという思うのです。

 新聞を読んでも、家族・家庭内の出来事をあるときは深刻な問題として扱っていたり、別な日には同じ日常の機微としてつづられていたりしています。そうしてたしかに家庭生活の日常というものには、事件というほどではない家族の出来事が、しかも些細なことが連続して起きているのが生活というものなのです。だから日常生活には、とても生活の基準などと呼べるようなものはないように見えるのです。また確かにそのような日常生活の連続した時間には、必ず喜ばしいという意味で甘ずっぱい味わいがあったり、同時に多少の反省点があるという意味でほろ苦いような味わいを持ているのです。そのような生活の機微というものがあるのはたしかなのです。しかし日常生活には、例えば夫婦や家族間で起こるオナラ隠蔽事件や鼻くそホジホジ事件や箸の上げ下ろし問題などがあるものですが、そのような家族や人の様々な行為や生活の一切が、必ず喜ばしくもあり、同時に反省すべき事柄としてもあるものなのです。オナラ隠蔽事件や鼻くそホジホジ事件などは、汚いから、気持ち悪いから、迷惑だからやめろと喧嘩にもなるのです。誰でもが夫婦喧嘩の原因を些細な事から起こるというように、そのようなどうでもいいような些細な問題から夫婦や家族の喧嘩が起こるのです。時には事件にまで進捗する場合もあり、それが人の世の常なのでしょう。その一方、オナラや鼻くそほりを気兼ねなくできるのは、夫婦や家族が信頼で結ばれ許しあっているからだと、喜ばしくも思える場合や、人や家族もあるのです。そのような些細な出来事を肯定的に捉え、受け入れて、平凡に日常を送るのも人の世の常でもあるでしょう。だから、確かにそれが普通の家庭や家族の日常であり生活の機微というものでしょう。

 しかし、人とその家庭や共同体や社会には、「人のあるべき姿」という基準があり、遣ってはならない行為や活動があるものなのです。人類が獲得してきた経験法則があり、社会には法があり、家庭生活での作法などと呼ばれているものがあるし、風習や習慣・迷信となったような禁忌もあるのです。マスコミや心理学者や臨床心理士・家政学者などは、あるいは時には芸能人や文化人たちもが、家族家庭の日常を取り上げ、深刻な家族家庭問題も、ほろ苦い味あいあるものとして扱ったり、あるいは、それらの日常の些細な問題を、心のもちようや考え方の問題や、性格が暗いとか明るいかの問題として捕らえたり、さらに積極的か消極的か、それが損か得かといった問題として見たり考えたりしているのですが、そのような基準を無視して並列的に扱ってはならないでしょう。そのような基準ない見方から、また各自各家庭の自由の問題かのように錯覚したりするところから、子育てが分からない、夫婦のあり方が分からないなどという現象となり、子供崩壊や夫婦家族崩壊・少子化問題など深刻な問題を起こすことになったり、同時にそのような問題が起きているのは一部のことで、おおかたの家族や家庭は安泰であり、些細な問題だ機微ある日常だとして、深刻な問題を省みない風潮にもなっているのです。

テーマ:生活向上のために - ジャンル:ライフ

耐震設計偽装問題について

耐震設計偽装問題は、政財官の構造的問題です。姉歯・内河・小嶋等などといった誰彼個人の悪意や性格の悪さが問題なのではないでしょう。それらの個人が、設計偽装は悪いこと、いけないことだ、と、うすうす分かっていたとしても、政党や官庁役所や会社の集団・組織に意見をしたり、それらの構造的な体制に刃向かったりできるはずがないのです。
小嶋・姉歯建築士などは政財官の強者によって太刀打ちも抗弁もできない個人としてババをつかまされた被害者ではないでしょうか。そしてマスコミが、それら名前が挙がる個人の責任を追及したからといって、また、国民がそれに踊らされたとしても、今後、設計偽装問題や建築業界問題や国土・道路公団問題・ゼネコン問題などが解決されたり、最近では防衛庁のそれに類する問題が起きましたが、それらの問題が解明される訳ではないでしょう。つまり構造的問題はつづくのでしょう。

引き篭り問題によせて
 引き篭もりになるには原因があり、その必然的な結果として起こっていると、私達LSCは、考えています。ですが私達は引き篭もりを理想的な生き方、生活の仕方とか、皆さんに奨励するべきだとは思いません。しかし次のような意味で、引き篭っている人々を応援したいのです。

というのも、引き篭もり問題を考えようとするとき気になるのは、引き篭もりという言葉と近い言葉に、閉じ篭り・山篭り・閉塞・世捨て・諦観的・厭世的・疎外・などという言葉があるということです。そして閉塞などの言葉は、明治~大正ごろから「時代閉塞」がいわれていました。そうして現代でも時代が閉塞され、私達の誰もが社会に閉じ篭められているような状態なのです。現代は自然破壊と地球破壊が進み、第一次・二次世界大戦やベトナム戦争の反省も生きずに、21世紀になったというのにアフガン・イラク戦争を止めさせられない時代なのです。日本でも戦争の反省は生かされず終戦直後から警察予備隊を作ったし、そこから自衛隊と名前を変え、現在は自衛隊を海外に出兵させたいと考える人々がいて、再度名前を軍隊と変えようと戦争の準備をやっています。役所や企業も、平和な社会を作り人々の幸せのために働こうとしてきたはずなのですが、平和に向かわない問題や幸せ薄い問題を省みないで、自己の利益ばかりに走っています。私達はそのような経済社会と時代から逃れられないでいるのです。そうして私達は戦後から現在まで、平和な社会や皆が幸である家庭を作れず、またそのような社会と時代を進んでくることができなかったように、私達はたしかに時代や社会を選べず逃れられないでいるのです。青年達が企業に勤めようとしても、なるべくならそのような地球破壊や戦争を推進する企業や、その経済戦略に手を貸すような会社に入りたくはないのです。また大人がボランティアなどで社会参加をする場合でも、善意とはいえ結果として自己満足・自己利益だけとなり、人々や社会の為に結びつかず虚飾となるような、人倫に反する社会悪をやる訳にもいきません。
そうして一人づつの仕事や活動や行いが問われる時代となり、また誰もが希望を持てない時代となり、閉塞された時代となっているのです。人々がそのようにして仕事をやり、物を作り、人々が暮らし、生活する社会なのに、またそうしてある世界や人類なのに、人々が生きられない息苦しい状態を作っているのです。つまり自己疎外をして自分を閉じ込めて、閉塞の世紀となっているのです。またこうして時代が進めば進むほど、誰でもが疎外され、救いなく諦観的・厭世的になり、引き篭もりや閉じ篭りにならざるをえない状況となっているのです。
行き場のない時代に苦しんでいるそのような人々を、マスコミや精神科の医者や心理学者などは「引き篭もり」だとか「ニート」だとか決め付け、または吹聴し、欠陥人間や悪いことのようにいうのですが、私達はそのような人々に対し伝えたいのです。条件があり生きるのならば大いに引き篭もってもらい、人々が活き活きと生きられるような次代の道を模索してもらいたい、そう思うのです。私達は、そのように真摯に自分を見つめる人々にエールを送り、世の中の偏見や差別に負けず胸を張って、可能な限り引き篭もってもらいたいと思うのです。またそのような人々が集まり意見交換などをやり、是非共同で研究し思索を進められるよう応援したいのです。あるべき社会や時代を見つめようとする人々は、また自分を真剣に見つけようとする人々は、私達が仲介したり、上手な討論や思索の進め方をお伝えすることはできますので、私どもにお声を掛けて下さい。



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